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zoom RSS (124)東日本大震災に思う(29)  日本初の原子力発電所 誕生秘話

<<   作成日時 : 2011/06/26 17:03   >>

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(1)ビキニ環礁・原水爆実験、その名は水着に
1946年7月5日、フランスのデザイナー ルイ・レアールが、セパレーツの大胆な水着を世界で初めて発表しました。この年、アメリカの原水爆実験が中部太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁で初めて行われたことから、自分のデザインした水着(下写真)が、原水爆なみの衝撃と効果を巻き起こすことを期待して「ビキニ」と名付けました。今や世界に広まり、7月5日は「ビキニの日」になっているようです。
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その、ビキニ環礁の原水爆実験は、戦後1946年〜58年の間、続けて行われていました。(下写真はその時のきのこ雲で、クリックすると迫力のあるワイドになります)
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(2)第五福龍丸「死の灰」事件・原水爆禁止世界大会
1954年3月1日、ビキニ環礁東方で操業中の日本のマグロ漁船「第五福龍丸」(総トン数140トンの木造船)はアメリカの水爆実験による放射線落下物「死の灰」を浴びました。下写真は母港の静岡県焼津港に帰港した「第五福龍丸」です。乗組員は放射線症で全員入院し、半年後に無線長だった久保山愛吉氏が死亡しました。
その後この船は一時東京水産大学の練習船になった後、現在は東京・夢の島の「第五福龍丸記念館」に保管されています)
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この事件をきっかけに日本では原水爆禁止を求める運動が全国に展開され、1955年8月に第一回原水爆禁止世界大会が広島で開催されました。
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(3)CIAと正力松太郎氏
困ったのはアメリカです。アメリカは当時の米ソ冷戦下で、日本への原子力導入を急いでいました。どうやったら日本の世論を鎮められるのか、そこで利用したのが読売新聞と日本テレビでした。
読売新聞は元警察官僚の正力松太郎が関東大震災の翌年の大正13年(1924年)に経営権を買い取った新聞社でした。当時の発行部数はわずか4万部程度でした。正力氏は昭和9年(1934年)に巨人軍を創立して、新聞の売上げを大幅にアップさせるなど、大衆操作にたけていました。下写真は弱小だった1930年頃の読売新聞社の社屋です。
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正力氏は、戦後、A級戦犯に指定され、巣鴨プリズンに収容されますが、無罪放免されました。アメリカ国立第二公文書館の資料によると、巣鴨プリズンで、今後CIAの意向に従って、新聞やテレビを通じて、日本国民に親米思想を植え付けていくことを条件として無罪放免された、との記録があるようです。

釈放後の正力氏は、昭和27年(1952年)には日本初の民放である日本テレビを創立し、社長に就任します。そうして新聞とテレビをフルに使い、原発は素晴らしいと大宣伝します。キーワードは、石油・石炭、電気に続く産業革命の源としての「第三の火」でした。プロパガンダの例としては、たとえば1954年から、読売新聞では「ついに太陽をとらえた」という原子力の平和利用を訴える大型連載が始まっています。

正力氏は昭和30年(1955年)、衆議院議員に初当選します。国会議員になった正力氏は保守合同を画策し、自由民主党を成立させます。11月には、CIAと共催で東京・日比谷で「原子力平和利用博覧会」(下写真)を行い、35万人を入場させました。以後、全国で開催していきました。
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(4)茨城県・東海村に日本初の原子力発電所が誕生
ちょうどこの頃、人形峠でウラン鉱床が発見されるなど、原発推進派には明るいニュースが増えていきました。
昭和30年(1955年)12月、日本初の原子力研究所の用地選定が始まり、約20カ所が候補に挙げられました。そのなかには、原子力合同委員会のメンバーである中曽根康弘の地元・高崎や、志村茂治(社会党)の地元・横須賀の武山が含まれていました。最終的に横須賀の武山が第一候補になりました。

昭和31年(1956年)1月1日、原子力基本法が施行され、原子力委員会が設置されると、初代委員長に正力氏が就任しました。下の写真は原子力委員会の初会合で、左から藤岡由夫、湯川秀樹、正力松太郎、石川一郎、有沢広巳の各委員です。
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昭和31年5月に科学技術庁が設立され、やはり正力氏が初代長官になりました。そしてに日本初の原子力研究所を第一候補だった横須賀の武山を覆し、茨城県の東海村に建設するに決定しました。
しかし、アメリカは正力氏に原子力を肯定的に報道させる一方で、核兵器技術につながる原子力技術の提供には消極的でした。当時のアメリカは日本が核兵器開発をするのではないかという懸念が根強くあったためです。
こうしている間に、イギリスやソ連の接触があり、1956年11月、正力氏はアメリカの態度に業を煮やし、原子力委員長として突如アメリカとのつながりを断ち、イギリスと契約して工事が始まりました。
下の写真は工事の始まる前の東海村と、1957年、第一実験炉が完成し、炉心部を見学する正力氏と原子力委員らです。
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1962年9月、国産第一号原子炉に、原子の火がともりました。そして1966年7月日本原子力発電・東海発電所として営業運転を開始し、日本の原発の歴史の第一歩を踏み出しました。その後は、私のブログ「(112)原子爆弾から原子力発電へ」に書いてある通りです。
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正力氏は単にCIAに操られていただけではなく、最終的にはイギリスの原子力発電機を導入したようにCIAと利権を争い、国益を考えていました。かくして、正力氏は、「プロ野球の父」、「テレビの父」そして「原子力の父」として、歴史に燦然と記録されるのです。
ただ、正力氏は原発の危険性を充分把握していなかったとの指摘もあります。「一号機導入の時、河野一郎氏(現自民党河野太郎氏の祖父)などは、原発は国営でおこなうべきではないかという意見をもっていたが、正力氏は民営路線を貫いた。それが現在にいたる国策民営という道筋になり、今回の惨劇につながった」というものです。

(正力松太郎:1885年4月11日富山県射水市生まれ、1969年10月9日没(満84歳)、 1911年 東京帝国大学卒業)

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
原発は経済界のドンの正力松太郎氏が原発の生みの親でしたか。
興味深く拝見いたしました。
シャクレ
2011/06/28 17:06
秘話を調べていて、知ったことで、興味深かったのは、最初の原子力発電所は、その危険性を知らなかったので、かなりの誘致合戦がくり広がれていたことです。
最終的には、横須賀に決まっていたのを、正力氏がくつがえして、東海村に決めたようですね。
横浜市民にとっては、幸いだったと言えますね。
M YASUDA
2011/06/29 11:09
ビキニとビキニ環礁…なるほど、そんな関係があったとは!
当時、水爆実験でも海の汚染は大丈夫だったのでしょうか?
原発の最初が中曽根さんと思っていたので、正力松太郎!
A級戦犯だった人がこの国の経済をつくったなら歪みが生じて当たり前かもしれませんね。
はな
2011/07/21 09:50
はなさん
私のブログに中曽根康弘を出さなかったので、補足します。
中曽根康弘は今でこそ政界の大御所・ご意見番ですが、若いころは正力松太郎に近づき「原子力予算」を成立させたり、後に私のブログの「原子力発電と核武装」に出てくる、岸信介内閣で科学技術庁長官、佐藤内閣で防衛庁長官など歴任して、大物政治家の下で原子力推進の仕事をしてきました。その結果、後に彼らの後を継ぐ大物政治家になったのでしょう。
彼は「政界風見鶏」と呼ばれていました。時の風を読み有利な方に着いてきました。
現在も、しばしばマスコミに登場し依然タカ派的意見をのべていますが、政界に隠然たる力をもち、影の核武装を指揮しているのではないでしょうか。
M YASUDA
2011/07/21 11:05

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