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zoom RSS (153)アメリカ大陸横断Qチャタヌガ(チューチュー)、ストーンマウンテン、アトランタと「南北戦争」

<<   作成日時 : 2011/10/11 23:28   >>

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2007年4月18日、ナッシュビルを出発して、アトランタに向かいました。テネシー川を渡り、ジョージア州チャタヌガの町に入りました。下写真はテネシー川とそれにかかる橋です。
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橋のたもとに公園があり、そこに下写真の銅像がありました。碑文によると、先住民チェロキー族の銅像で、この地域に10,000年、何世代にもわたって住んでいた、とありました。
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そして、チャタヌガの駅舎を改装したレストランにて昼食を取りました。
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駅構内は綺麗な緑が植えられていました。
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「Chow Chow列車」もありました。
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この駅を舞台にした名曲「チャタヌガ・チュー・チュー」(Chattanooga Choo Choo)があります。1941年(録音は5月7日)にグレン・ミラーが率いるビッグ・バンドが発表した楽曲です。
Chattanooga Choo Choo - Glenn Miller Orchestra
Vinicius Tavaresさん 2008/01/26 にアップロード

ジョージア州に入り、アトランタの手前で、ストーン・マウンテン・パークでバスを降りました。ここには世界最大の花崗岩があり、南北戦争の南軍の英雄3人が彫られています。大きな岩で、ロープウエイもついています。
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3人の英雄は左からデービス・アメリカ連合大統領、リー総司令官、ジャクソン将軍です。
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再びバスに乗り、アトランタに着き、ジョージア州議事堂前の広場(下写真)でバスを降りました。
アトランタの人口は500万人。古くは鉄道交通のハブとして、また綿花産業の中心地として栄えました。やがてコカ・コーラ、デルタ航空、CNNなど多数の大企業が本社を置くようになり、ジョージア州のみならずアメリカ合衆国南部の商業・経済の中心地としての役割を担うようになりました。
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アトランタはコカ・コーラの発祥の地で、ここには「コカ・コーラ博物館」がありますが、この時は下写真のように、改装中でした。
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この広場から、鉄道の高架下の倉庫街がモールになった「アンダーグラウンド」を散策し。お土産を買いました。
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その後、バスに乗り、オリンピック記念公園に行きました。アトランタで開催された第26回夏季オリンピックは、近代オリンピック開催100周年記念大会であるため、入口には「100周年オリンピック公園」と書かれています(下写真)。
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公園の中は、広い芝生が広がっているだけでした。
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そして、アトランタ駅で夕食の弁当を食べ、アムトラックの夜行列車に乗ってワシントンに向かいました。
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これで、南部とはお別れですので、ここで「南北戦争」について説明します。

アメリカは19世紀なかば、北部は商工業が発達し、南部は奴隷制度に支えられた綿花の栽培が盛んでした。南部にとって、労働力となる奴隷は必要不可欠でしたが、北部はそれを非難してきました。1820年、北緯36度30分より北で新たに奴隷州をつくる事を禁止するミズリー協定が結ばれ、対立は一旦落ち着きました。
ところが、1861年に奴隷制度の廃止を訴えるリンカンが大統領になると、奴隷制度の存続を求める南部11州は「アメリカ連合」を結成し、合衆国から脱退を宣言しました。そして、南部の軍隊が北軍のサムスター要塞を攻撃したのをきっかけに南北戦争が始まりました。(下図クリックすると大きくなります)
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当初は数で勝る北軍の楽勝と思われましたが、寄せ集めの北軍に対し、南軍は軍事経験者が多く、総司令官リー将軍は次々と北軍を打ち破って行きました。この戦いには、気球からの偵察、装甲艦どうしの海戦、連発式ライフル銃、電信、鉄道による物資の輸送など、世界最初の近代的な総力戦となり、戦局は泥沼化していきました。

さらにイギリスはフランスとともに「アメリカ連合」を認める動きを示しました。アメリカ合衆国の分裂を避けるため、1863年1月1日リンカン大統領は「奴隷解放宣言」を正式に公布し、南北戦争を「奴隷解放の戦争」と位置付けました。これでイギリスは表立って南部を支援出来なくなりました。さらに奴隷解放宣言を支持する20万人近い黒人が北軍兵士となり、1863年7月1日ゲティスバーグで始まった戦い(下図)は南北戦争で最大の激戦となりました。
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その後、戦局は北軍に有利に傾きました。南軍は南部の首都リッチモンドを守って最後の抵抗をしましたが、1865年4月9日南軍総司令官のリー将軍は降伏し、北軍36万人、南軍26万人というアメリカ史上最大の死者を出した5年間にわたる南北戦争が終りました。
その直後の4月14日リンカン大統領が暗殺されました。しかしアメリカはリンカンの努力で分裂の危機を乗り越え、奴隷廃止を実現させることが出来ました。

南北戦争について詳しくは「(413)アメリカ大陸横断(付録3) 漫画「南北戦争」リンカン大統領と南軍総司令官リー将軍 」をご覧ください。

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(413)アメリカ大陸横断(付録3) 漫画「南北戦争」リンカン大統領と南軍総司令官リー将軍
アメリカは19世紀なかば、北部は商工業が発達し、南部は奴隷制度に支えられた綿花の栽培が盛んでした。南部にとって、労働力となる奴隷は必要不可欠でしたが、北部はそれを非難してきました。1820年、北緯36度30分より北で新たに奴隷州をつくる事を禁止するミズリー協定が結ばれ、対立は一旦落ち着きました。 ところが、1861年に奴隷制度の廃止を訴えるリンカンが大統領になると、奴隷制度の存続を求める南部11州は「アメリカ連合」を結成し、合衆国から脱退を宣言しました。そして、南部の軍隊が北軍のサムスタ... ...続きを見る
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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんは〜。
「チャダヌガ」が地名だったとは知りませんでした。
「チャダヌガ・チュチュ」という曲があって、
チャダヌガって何だろう??と思っていました。
お菓子かなんかかなぁと思っていました。
地名だったのですね。
ふるやのもり
2011/10/21 23:18
ふるやのもりさん
本当にいろいろよくご存じですね。
私も現地に行って初めて知りました。
この旅行記を書くためにネットで調べていると、日本の建機メーカー「コマツ」がチャタヌガに1985年にアメリカで最初の現地工場を建設したとの記事も見ました。
もう26年も前です。
アメリカ大陸横断で見たこと、今旅行記を書きながら調べていること、新しい発見の連続です。
M YASUDA
2011/10/22 23:22
南北戦争の説明がわかりやすく勉強になりました。日本の歴史にも奴隷制度のようなものはあったのでしょうか?
はな
2011/10/27 14:49
はなさんへ
南北戦争は、日本の「関ヶ原」のような、天下を二分する大きな戦いだったと思います。
しかし、5年間におよぶ戦いで、死者南北合わせ62万人とは「関ヶ原」の比ではありません。
ペリーが日本に来て、日本を開国をさせましたが、その後日本に進出してきたのは、イギリス、フランスです。アメリカは日本の開国後、南北戦争に忙しく、日本に係る余裕はありませんでした。

日本には奴隷制度はなかったですが、似たような人身売買はつい先ごろまでありました。貧しい農村で、自分の娘を遊郭に売ったり、娘をさらって遊郭に売りとばしたり、奴隷制度と似たようなものですね。
中国では、古くから戦争に負けた人間を、奴隷にしたりしてきました。
今も中国には日本人の残留孤児の問題があります。敗戦後、広い満州から逃げる人々には、自分の子供を、中国人に預けて(売って?)帰った人々が多数います。この人たちが残留孤児です。
ソ連は、日本人捕虜60万人をシベリアに抑留し過酷な労働をさせました。この間5万人が亡くなっています。奴隷のよう扱いだったでしょうね。はなさんのおじいちゃんから貴重な体験のお話が聞けないのが残念ですね。
M YASUDA
2011/10/28 10:09

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