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zoom RSS (197)陸軍登戸研究所A その跡地は現在どのようになっているのでしょうか?

<<   作成日時 : 2012/04/05 22:55   >>

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登戸研究所は川崎生田区(現在の川崎市多摩区)にありました。
その敷地面積は、11万坪であったといわれています。昭和22年(1947年)、終戦から2年後にGHQが撮った航空写真に次のようなものがあります(写真をクリックすると大きくなります)。
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しかし、明治大学が払い下げを受けた面積はそのうちの3万坪で、全体の3割弱にすぎません。残りの8万坪は現在どのようになっているのでしょうか?今回はこの点に焦点をあててみます。明治大学の先生方の共同研究の著書「陸軍登戸研究所 隠蔽された謀略秘密兵器開発」には、その点が述べられていますので、その要点をまとめてみます。

明治大学生田キャンパス
明治大学が、登戸研究所跡地を国から払い下げを受けて、農学部のキャンパとしたのは、終戦から4年を経過した1950年でした。明治大学が1949年、登戸研究所跡地の払い下げ申請に先立ち、調査した「校舎候補地」には次のように書かれています。

所在地:神奈川県川崎市生田区5158番地
新校舎予定地の概要:
イ、所属 現地は旧第陸軍技術研究所跡にして、国有財産。
ロ、位置 小田急沿線の南高台で、植込みの樹木整然として、学園の地として好適。
ハ、面積および土地建物の使用状況 敷地の広さ約4万坪、その中に慶應義塾大学予科校舎として借用しているもの約2万坪。その他、ステンレス会社、紡績会社の借用地となり、ほとんど放棄の状態にして、単に利用権を得ている状態である。
建物数約50棟、述べ4,000余坪、鉄筋コンクルート建5棟の他は、木造平屋である。
電気水道設備完全にして農学部としての実習実験に役立ち、さらに旧陸軍技術研究所時代の研究設備が尚ほ残置している。

上記の文中の出てくる「慶應義塾大学予科校舎」については、「慶應義塾大学百年史」を引用して次のように述べられています。慶應義塾大学の日吉校舎は1945年4月15日の横浜空襲で、建物の8割が焼失し、さらに同年9月8日にはアメリカ軍が日吉構内の施設を接収したため、旧登戸研究所の施設を借り受けて「登戸仮校舎」と称して、授業を開始した。借り受けた対象は、土地2万坪、建物3,800坪。1949年秋、日吉校舎の接収解除により、順次日吉に復帰し、1950年3月までに引き払いを完了した。

明治大学への跡地払い下げは慶應義塾大学の日吉に復帰が始まった1949年末にまとまり、1950年4月の使用開始に備えることになりました。下写真は旧陸軍の施設を利用した創設時の写真です。
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下写真は1954年当時の明治大学生田校舎の全景です。
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軍用地の農地化と再利用
戦後、軍事施設の教育機関転用とともに、軍用地の農地化の動きも進みました。戦後日本が抱えた緊急問題の一つは食糧危機でした。このため、登戸研究所跡地の開墾可能地は生田農業会などに払い下げられました。後に農業会は解散し、生田農業協同組合が設立され、ここに農地が売却されましたが、その面積は17町歩(51,000坪)といわれています。
その後、日本の食糧事情も落ち着き、東京近郊の都市化が進む中で、生田農協はその一部を明治大学に売却し、さらに日本住宅公団にも売却しています。現在の西三田団地(下の地図の○印)がそれです。

登戸研究所跡地の終戦直後と現在の姿
下の図は明治大学への払い下げが決まる前の1945〜1947年ころのものと思わる登研究所跡地の地図(クリックすると大きくなります)です。この地図には上記「校舎候補地」にあるステンレス会社や、紡績会社は見当たりませんが、慶応大学、巴川製紙、北里研究所の所在地が示されています。36号棟が現在、登戸研究所資料館になっている建物です。
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上記の地図の対応する、現在の地図(クリックすると大きくなります)を下に示します。現在の明治大学生田キャンパスを赤線で囲んであります。
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二つの地図から、上の地図の「青年学校」「国民学校」は、現在の地図のO印の「生田中学」「川崎市青少年創作センター」と思われます。また、上の地図では西と南から包むような形で「農業会」の土地が延びていますが、現在ではこれらの場所は住宅地や団地が広がっています。

冒頭の書籍では次のようにまとめられています。
「登戸研究所の敷地面積は11万坪であった、といわれている。もしそれが事実だとすれば、明治大学生田校地の払い下げ面積3万坪は、全体の3割弱にすぎない。上の登戸研究所の地図で見る限り、農業会所有地も明治大学校地を上回るものではないから、登戸研究所敷地と民間所有地との境界線は、この地図の外側、東西両側と南に広がっていたと考えねばならず、いろいろ調べたが、現在まで確認することが出来なかった。」と述べられています。

それでは上の登戸研究所の地図の外側は今どのようになっているか、現在の地図を調べてみます。明治大学生田校地の外側には、生田丘陵に押し寄せた都市化の波により、団地・住宅地の造成、学校設置が進み、郊外住宅地の環境が整備されています。また付近には川崎市浄水場、東京都浄水場。川崎国際生田緑地ゴルフ場、専修大学生田校舎、生田緑地(日本民家園)などの公共施設もあります。
これらの土地の一部は登戸研究所の跡地であったと推定して良いのではないでしょうか。しかし、そこに住む人々や施設を利用する人々は、嘗てここに旧陸軍秘密の登戸研究所があったことを知る人はほとんどいないでしょう。

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