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zoom RSS (383)彦根城物語C 彦根藩・藩祖 井伊直政の生涯

<<   作成日時 : 2015/01/23 20:26   >>

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下写真は彦根駅前のロータリーにある井伊直政の銅像です。井伊直政は断絶寸前となっていた井伊家を再興し、彦根藩の藩祖となり、江戸幕府の譜代筆頭として欠かせない井伊家の礎を一代で築き上げた人物です。今回は彦根市の「国宝・彦根城築城400年祭」のHPの「列伝 井伊家14代」から井伊直政の生涯に追ります。

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井伊直政は1561(永禄4)年、遠江国・井伊谷(いいのや)で生まれました(幼名虎松)。下写真は井伊谷にある「井伊直政公出世之地」の碑です。

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時は戦国、武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いの年でした。虎松の生まれる以前の井伊家は今川氏の配下にあり、誕生の1年前、祖父・直盛は桶狭間の合戦で戦死しました。父・直親は家康と懇意にしていたため、これに腹を立てた今川氏真により謀殺されました。後を継いだ曾祖父・直平も毒殺され、井伊家を継げる者は若い虎松だけとなりました。この時虎松の後見人になったのが、次郎法師祐圓尼でした。

1575(天正3)年、虎松15歳、徳川家康の家臣になることを決心し、家康が三方原へ鷹狩りに出た際に、つてをたよって謁見しました。家康は父・直親が自分に味方しようとして謀殺されたことを覚えており、虎松を家臣に加えました。自分の幼名・竹千代にちなみ、虎松に万千代を名乗らせ、300石を付与しました。

その後、万千代は懸命に家康につかえ、武功をあげその度に加増され、翌々年には2万石になりました。1582(天正10)年11月、万千代は元服し、24代井伊直政を名乗りました。家康は徳川家の旗本衆の一部と、配下としていた旧・武田二十四将の一人山県昌景を井伊家に与えました。山県昌景は兜から甲冑具足に至るまで真っ赤に染め上げた赤備えを軍勢のシンボルにしていました。これに感化された直政は、家臣団を赤一色の赤備えにしました。時に直政22歳。「井伊の赤鬼」伝説の始まりでした。石高も4万石に加増されていました。下写真は彦根城博物館にある直政の赤備えです。

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1584年3月から始まった豊臣家対織田・徳川連合の戦い「小牧・長久手の戦い」に直政は赤備え隊を率いて出陣しました。秀吉軍2万に対して家康軍1万という劣勢の中で、直政は自身も赤一色の身ごしらえで真っ先に渦中へと切り込んで行きました。長槍で敵を蹴散らしていく様子はまさに鬼神「井伊の赤鬼」であったといわれています。

井伊家は徳川直参でないのにもかかわらず、直政はそれらを押しのけて筆頭に名を連ねる異例の出世をしました。それは当然、周囲からの妬みや嫉みの対象となり、ひとたび足元をすくわれれば転落する世の中です。直政が家康という後ろ盾をどれほど頼りにしていたか、それはいわずもがなです。直政は家康に対して、奇妙なほど実直に誠実であろうとしました。また戦場では大将であるはずなのに真っ先に切り込むため、いつも陣中の指揮は筆頭家老の木俣守勝が取っていました。直政にとって、家康へ手柄を示すのは自身でなければならなかったのです。

群雄割拠の戦国時代もやがて大国が小国を飲み込み、より強大な国同士が睨み合う勢力図へと変容を遂げる頃になると、どの戦国大名にも片腕と称される武将の存在が確認できるようになりました。徳川家康にとっての片腕は井伊直政をおいて他にはいなかったと思われます。後に徳川十六神将の一人に数えられ、四天王筆頭とまで呼ばれた直政です。

1590(天正18)年、関東を制圧した北条氏と大阪の豊臣氏の「小田原の役」が始まると、徳川家康も豊臣軍に与して参戦し、直政もそれに従いました。この戦役は小田原城に立てこもった北条軍と、城を取り囲んだ豊臣軍との持久戦となりました。下写真は現在の小田原城です。

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どの武将も攻め手を決めかねて動かない中、唯一小田原城内に攻め入ったのは井伊直政率いる赤備え隊で、城内の篠曲輪に夜襲をかけました。後にも先にもこの戦役で小田原城が戦場となったのはこの時だけでした。

北条氏は降伏し、豊臣秀吉は奥州を平定して天下統一を成し遂げました。北条氏が領有していた関東は徳川家康に与えられました。軍功をあげた直政にも、家康から上州箕輪12万石の領地が与えられました。
徳川家康の関東移封に伴い、忍十万石を領した家康の四男・松平忠吉忠吉に妻を持たせることとなり、直政の娘がその正室となりました。井伊直政は徳川家と晴れて姻戚関係になりました。家康の恩義に尽くすことにその身を捧げてきた直政にとって、それは至上の瞬間であったと思われます。

1600(慶長5)年9月15日。豊臣秀吉没後、徳川家康を中心とする東軍と石田三成を中心とする西軍との間で、天下分け目の「関ヶ原の合戦」が起こりました。

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上写真は関ヶ原の戦いの松平忠吉・井伊直政陣跡です。その日。関ヶ原は早朝から立ち込めた濃霧で、家康から先陣を任されていた福島正則はじっと開戦の時期を待っていました。そこに直政が義理の息子の忠吉を連れて現れました。直政は言う「ここにおわすは、家康公のご子息にして松平下野公である。下野公は初陣であり、後学のため先陣を物見に行く」と。家康の息子であるという言が効き、福島軍に通り道が出来ると、直政はそのまま敵陣へ突進。忠吉が宇喜多軍に発砲した銃声により、戦の火蓋は切って落とされました。
直政にしてみれば、徳川家の命運を左右するような戦で、徳川家ではない福島正則が一番乗りの名乗りを上げることが我慢ならなかったのでした。『徳川が動いたために開戦した』という結果がほしかったのです。

戦が始まると、両軍入り乱れての混戦となり、直政は忠吉とともに島津義弘の陣中に切り込み瓦解させました。下は関ケ原町歴史民族資料館の「関ヶ原合戦図屏風」(クリックすると大きくなります)で、真中やや右の赤い一団が直政の赤備え隊です。

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ここには、直政のこれまで勝ち取ってきたやり方、真っ先に戦乱を駆け巡る「孤高の赤鬼」の姿がありました。傷を負うのは当然のことで、これまで命を落とさずに軍功を上げられたのは、直政に武勇と強運という天賦の才が備わっていたからでしょう。しかしその強運も底をつき、隠れ潜んでいた島津軍の伏兵が放った凶弾を受けました。幸い右腕に当たっただけで急所はずれましたが、やがてその傷が直政の命を奪うものとなりました。

「関ヶ原の合戦」は東軍の勝利で終り、1601(慶長6)年、直政は戦場での武功により加増され、石田三成の本拠であった近江佐和山18万石を拝領し、佐和山城に移りました。

しかし直政は戦で受けた銃創から敗血症を併発し、床に伏せるようになりました。己の死期を悟った直政は、郷里である井伊谷に帰れないことを悔やみ、近江国にも井伊谷と同じ龍潭寺を建立することを遺言としました。さらに戦乱で荒廃した佐和山城より住み良く立派な城を築城することも遺言に加えました。

1602(慶長7)年2月11日、井伊直政は死去、享年42歳でした。その遺骨は彦根の清涼寺と井伊谷の龍潭寺に分骨されて葬られました。 下写真は彦根・清凉寺の直政の墓です。

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病床の枕元に筆頭家老の木俣守勝を呼んだ直政は後事についてこう言い残したといいます。
「井伊家があるのは徳川殿のおかげであることを忘れてはならぬ。家督を継ぐものは代々、御奉公第一、忠節一筋を心掛けることを申し送るよう務めろ」
後に、譜代大名筆頭として7人もの大老を輩出し、江戸幕府には欠かせない大名家となった井伊家の歴史(彦根城の歴史)はここから始まったのです。


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