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zoom RSS (458)原爆を描いた映画A 原爆を語る前に見よう !映画「ひろしま」

<<   作成日時 : 2016/10/04 11:21   >>

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昭和27(1952)年に公開された映画「原爆の子」に引き続き、昭和28(1953)年に映画「ひろしま」が公開されました。私はこの時、小学校6年生でしたが、学校教育の一環として、学校から何年生以上だったか覚えていませんが、生徒揃って映画館に行き、この映画を見ました。その時は被爆者の様子が怖くて、目をそらしていました。他の生徒もそのようでした。私はかねがねこの映画をもう一度見てみたいと思っていましたが、今日に至るまで全然上映されず、この映画はどこに行ったのか?と不思議に思っていました。
最近、YouTubeでこの映画に出会いました。63年前怖くて直視出来なかった映画を、2回、3回・・・繰り返し見ました。

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まず、驚いたのは、この映画の企画・制作が、日本教職員組合(日教組)だったことです。それで、学校からそろって見に行った訳がわかりました。
長田新が編纂した文集『原爆の子〜広島の少年少女のうったえ』(岩波書店、1951年)を八木保太郎が脚色した映画です。関川秀雄監督の下、日教組に参加する広島県教職員組合と広島市民が全面的協力し、原爆を直接経験した者も少なくない広島市の中学・高校生、教職員、一般市民等約8万8500人が手弁当のエキストラとして参加し制作されました。
製作側が全国配給元として交渉していた松竹は、「反米色が強い」として数カ所のカットを要求しましたが折り合わずに拒否。各県の教育委員会も「教育映画」としての推薦を見送る県が多く、学校上映にも厳しい壁が立ちはだかったようです。幸か不幸か私の県は見ることが出来ましたが、多くの生徒は怖くて理解できなかったでしょう。私のブログのこのページをご訪問くださった方、ぜひこの映画を下画面でご覧ください。

ひろしま
Sonureさん
2015/09/10 に公開

この映画を理解しやすくするために、ストーリーを貫く登場人物を整理しておきます。
(大場家)
母・・・みね(山田五十鈴)被爆後病院にて死亡
長女・・町子 被爆時女学校生、建物の下敷きになって死亡
長男・・明夫 被爆時幼稚園生。母と一緒に居た病院にて死亡
次女・・みち子 被爆7年後高校生。授業中に悪くなり病院にて死亡
(遠藤家)
父・・・秀雄(加藤 嘉)被爆後、病院にて死亡
母・・・よし子(河原崎しづ江)被爆時、家の下敷きになって焼死
長男・・一郎 被爆時中学生、病院にて死亡
次男・・幸雄 被爆時は疎開先にいて無事、この映画の準主人公
長女・・洋子 兄幸夫と病院で父親に会うが、父親の変わりはてた姿に驚いて逃げ行方不明
被ばく当時の女学校教師・・米原先生(月丘夢路)
戦後の新制高校の教師・・・北川先生(岡田英次)、この映画の準主人公

映画のあらすじを写真とともに紹介します。

映画は、高校の英語の授業から始まります。アメリカ軍で広島に原爆を落としたB29爆撃機「エノラ・ゲイ号」のパイロットの言葉が、ラジオから流れるのを聞いています。その言葉は、「日本の真珠湾攻撃」とフィリピンでの「死のバターン行進」への憎しみと共に、広島に近づくにつれ、一瞬にして広島を「大量殺戮」の場とすることへの心の傷みとの葛藤が語られています。
一人の女学生(大場みち子)立ち上がり「やめて・・」と叫び、鼻血を出して伏せます。
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入院した大場みち子を見舞いに来た生徒が一冊の本を読んでいます。「ナチスドイツが毒ガスを使ったことを非難していたアメリカが、さらに強力な原子爆弾を日本に落としたのは・・・日本人が有色人種であったからだ!・・・・」と
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大場みち子の回想のかたちで、映画は原爆投下の時に変わります。原爆が投下されて日の前夜は、一晩中空襲警報が出ていましたが、朝になって解除されました。下写真はその時の大場家の様子です。
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学生たちが疎開作業に出た時にB29が飛んできました。下写真は不審に思いながら空を見上げる女学校の米原先生(月丘夢路)と女性徒たちです。
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8時15分。広島に原子爆弾が落とされ、広島は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄図となりました。
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下写真は、建物の下敷きになった大場家の長女・大場町子です。
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呆然と、空を見上げる米原先生。
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大場家の母・大場みね。「明夫!みち子!」と二人の子供の名前を叫び続けます。
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下写真は瓦礫の中から「おかあちゃん」と叫びながら出てきた大場家の次女・大場みち子です。7年後には授業中に「やめて!!」と叫ぶ女の子に成長します。
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一方、遠藤家では、母よし子が、倒れた柱の下敷きになりました、父秀雄が懸命に助け出そうとしますがかなわず、よし子は焼死します。
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被爆した女学校の米原先生は、下写真のように女性徒たちを励ましながら川に向かっていきますが、米原先生をはじめ女性徒たちは次々川の中で命尽きます。
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大場家の母みねは、死んだ明夫をいつまでも抱いています。近くの男が「その子は死んでいます。早く火葬してもらいなさい」とすすめます。
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下写真は、被爆者が船でどこかの病院に行くところで、この中に大場みねと次女みち子がいます。
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着いた病院で、大場みねが命尽きます。大場家は大場みち子一人になってしましました。
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一方、遠藤家では、父秀雄は長男一郎を探し回り、ようやくある病院で見付けることが出来ましたが、すでに死亡していました。下写真は秀雄が死んだ一郎を背負い、一郎と一緒に逃げて来た一郎の友人に、お礼と別れの言葉をかけているところです。
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遠藤家に焼けた家の跡には、疎開先から次男幸男と長女洋子が帰ってきました(下写真)。
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兄妹は、防空壕にあるビタミン薬を探しにきた父秀雄が入っている病院の小母さんと出会えて、一緒に病院に行きました。そこで幸夫はもう意識の亡くなった父に出会うことが出来ました(下写真)が、妹洋子は「お父さんじゃない!」と言って逃げ出してしまいました。幸夫が追いかけましたが・・・その後行方不明になってしましました。
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映画は原爆投下時から、最初の7年後に戻ります。幸夫は「少年の島 似島学園」に入っていましたが、復員してきた叔父さんに引き取ってもらえました。下写真の中央が叔父さんです。
その後、幸夫は最初は学校に通っていたようですが、キャバレーでのバイトや、パチンコで過ごすようになりました。その後一時叔父さんの勤めている会社で働いていましたが・・・
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下写真!!小学校の時に見たこの映画の下の場面は、よく覚えています。孤児たちが米兵からガムやチョコレートをもらうために、手を出しながらある言葉を皆で練習しています。
「ユー ジェントルマン パパ ママ ピカドン ハングリー ハングリー」
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幸夫は、この子たちに「米兵に売るための、良いお土産品を教えてやる」と言って、夜陰に乗じて、島の防空壕に連れて行き、死者の頭蓋骨を持って帰りました。しかしすぐに警察に見つかり、警察に北川先生が呼ばれました(下写真)。北川先生から「工場に勤めていたのではないのか?」と聞かれて、幸夫は「勤めていた工場が大砲の弾を造るようになったのでやめました。自分は戦争に行きたくない」と答えました。
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下は、映画のラストシーンです。万を超える人たちの流れが、原爆ドームに向かって歩き続けます。平和に向かっての群衆の大行進です。
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被爆で倒れ、死んでいった人たちも、起き上がり、立ち上がり、カメラに向かって歩き出します。
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