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zoom RSS (212)陸軍登戸研究所(補遺4)まとめにかえて

<<   作成日時 : 2012/05/12 20:22   >>

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陸軍登戸研究所シリーズのまとめにかえて、以前に勤めた会社のOB会の会報に寄稿した原稿を掲載します。

(はじめに)
小田急線生田駅の近くに明治大学生田校舎があります。この敷地の中に「明治大学平和教育登戸研究所資料館」(以下「資料館」といいます)があります。この資料館(下写真)は2010年3月29日に開設されました。本稿はその資料館訪問の記であり、その内部の展示物や資料などから「登戸研究所」について説明します。
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(登戸研究所と明治大学生田校舎)
「登戸研究所」は、秘密戦のための兵器の研究・開発を行う旧帝国陸軍に属する機関で、現在の川崎市多摩区にありました。最盛期の1944年には敷地面積11万坪、建物100棟余、技術将校・技師・技手など幹部所員250名、一般雇員・工員など合わせ総勢1,000名に達する大規模な研究所でした。
猶、秘密戦とは戦争に付随して行われる水面下の戦いで、防諜(スパイ防止)・諜報(スパイ活動)・謀略(破壊・攪乱活動・暗殺)・宣伝(人心の誘導)の4つの要素から成り立っています。

明治大学は、戦後、この登戸研究所の敷地のうちから3万坪の払い下げを受けて大学用地とし、建物や施設をそのまま利用して1950年に「生田校舎」を開設しました。現在ではほとんどの建物や施設は建て替わっていますが、残された昔のままの建物の一つが改装されて、このたび「明治大学平和教育登戸研究所資料館」として生まれ変わりました。

資料館の設立趣旨には「・・・登戸研究所という機関の行ったことがらを記録にとどめ、大学として歴史教育・平和教育・科学教育の発信地とするとともに、多年にわたり、登戸研究所を戦争遺跡として、保存・活用することを目指して地道な活動を続けてきた地域住民・教育者の方々との連携の場としていきたい。・・・・」と、あります。

(資料館の建物および内部)
資料館の建物(上写真)は、登戸研究所第二科が研究施設として実際に使用していた建物です。この建物は戦後「36号棟」と命名され、長らく明治大学農学部の教育施設として利用されていました。分厚い鉄筋コンクリートの建物で重い鉄の扉がついています。資料館の内部には5つの展示室とレストスペース、暗室、受付事務所、収納庫などがあります。

(第一展示室)
第一展示室(下写真)では、登戸研究所が設置された歴史的な背景と目的、立地条件、組織の概要、運営体制、他機関との関係、そして戦争の進展とともに研究所の規模と役割が次第に変化していく過程を中心に研究所の全体像が紹介されています。
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(第二展示室)
第二展示室には、登戸研究所第一科の活動に関する展示がされています。第一科は特殊兵器・電波兵器の研究・開発部門であり、登戸研究所の中核的な組織でした。代表的な研究・開発が「ふ号兵器」(風船爆弾)でした。下写真は第二展示室に浮かぶその10分の1の模型です。
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和紙をコンニャク糊で張り合わせた直径10mの気球に当初計画では牛に対して強い感染力を持つ牛疫ウイルスを搭載し、ジェット気流にのせてアメリカ本土の攪乱をねらうものでした。しかし作戦実施にあたってはアメリカの反撃を恐れた陸軍中央の最終的な判断によって牛疫ウイルスではなく、焼夷弾が搭載されました。

実戦にあたっては、約1万発が生産され、1944年11月から1945年3月までに千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来から9,300発が発射(放球)され、1,000発程度が北米大陸に到達したと推定されています。
この他に電波で人体を攻撃する「く号兵器」(怪力光線・怪力電波)、超短波を利用したレーダー「ち号兵器」などの電波兵器や、気象兵器、宣伝・諜報兵器などの研究・開発についても展示されています。

(第三展示室)
第三展示室では、登戸研究所第二科の活動を紹介しています。第二科は生物兵器・毒物・スパイ機材などの研究・開発を行い、日本陸軍が水面下で行っていた秘密戦を兵器・資材の開発という点で支えていました。下写真(クリックすると大きくなります)は第二展示室のパネルで、生物兵器・毒物・スパイ兵器について、その研究の内容、およびその開発と実行に関する流れが図示されています。
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生物兵器は敵国の食糧である動植物に大打撃を与え、敵国の戦意を喪失させることを目的に、防御が不可能な未知の細菌を兵器とするものです。登戸研究所では、敵国の食糧である小麦に被害を与える細菌や、稲を枯らしてしまう細菌、稲の害虫などさまざま研究・開発を行っていました。

毒物兵器は対人間用の謀略工作(殺人など)の目的で研究・開発が行われました。
毒物兵器の開発では、飲食物に混入しても疑いをもたれないものの開発を目指し、毒草や毒蛇などを取り寄せて研究が行われました。毒物兵器で成果があがったものに酸化ニトリルがあります。中国でこれを使った人体実験が満州731部隊と協同して行われたとされています。

スパイ機材についてはスパイ活動に使われるさまざまな機材の開発が行われました。
兵器らしく見せず、また証拠を残さず、原因不明を装うことの出来る兵器の開発が重視されました。例えば雨傘のようの見える放火器具、缶詰型爆弾、万年筆の形をした毒物注入兵器、ライターやカバンに仕込まれたカメラ、スパイ同士の情報伝達手段としての超縮写法などの研究・開発が行われました。

(第四展示室)
第四展示室には、偽札製造を行った登戸研究所第三科の活動を中心に展示がされています。偽札は経済謀略戦の一貫として製造され、中国・蒋介石政権下の紙幣を中国で散布し、インフレを惹起させて中国経済の混乱・弱体化を図ろうとしました。この他にも偽造パスポート、偽インドルピー、偽米ドルなど様々な偽造印刷工作を担っていました。
展示室には2011年2月に解体された木造の印刷工場の建物の模型が展示されています。また実際に製造された偽札も展示されています(下写真)。
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(第五展示室)
第五展示室では、日本軍の戦局の悪化にともなう本土決戦体制の構築の流れと、そのひとつであった登戸研究所の移転の様子が展示されています。また敗戦・占領政策と登戸研究所の関係や、登戸研究所が現在の資料館として生まれ変わる過程を、高校生と元研究所員との交流を中心に紹介しています。
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これらの展示の中で、これまで闇に葬られてきた登戸研究所の戦後について、下写真(クリックすると大きくなります)のような「敗戦と登戸研究所」と題したパネルに「証拠隠滅・解散→接収→召喚→免責→協力」の流れが説明されていましたので、これについて要約します。

1945年8月15日、敗戦と同時に陸軍省から証拠隠滅のための極秘命令が出され、登戸研究所では機密文書、兵器等の徹底的な証拠隠滅作戦が行われ、翌16日に解散式が行われました。
一方、アメリカは日本各地の施設を次々に接収すると同時に、関係者を召喚し、秘密戦に関わる情報を、冷戦が進む中でソ連より早く収集しようとしました。しかし関係者の口は重く、尋問はスムースには進みませんでした。

こうした中、極東国際軍事裁判(東京裁判)の公判中、アメリカはソ連が731部隊関係者への尋問と訴追の準備をしているとの情報を入手しました。アメリカはソ連によって秘密戦情報が暴露・独占されることを恐れ、日本側へ免責を条件に、非協力的であった秘密戦関係者に情報提供を促しました。

その結果、アメリカは関係者より情報やサンプルを入手し、日本の秘密戦研究とその実戦に関する戦争責任は、東京裁判で不問に付されました。こうして関係者の協力によってアメリカに渡ったデータとノウハウは、朝鮮戦争やベトナム戦争に継承されて行くこととなりました。



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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
研究を引き渡す代わりに免責を得るとは
アメリカ的と言うか・・・利己的と言うか・・。
その研究がアメリカにどう利用されたのかされなかったのか、よく分かりませんが恐すぎます。
牛疫ウイルスを搭載した風船爆弾が実際のものにならなくて良かったです。
ふるやのもり
2012/05/30 09:31
ふるやのもりさん
登戸研究所の実態を知りたいという、長年の念願が果たせました。
お気づきと思いますが、冒頭の写真はふるやのもりさんの写真を記念に使わせて頂きました。
このきっかけを与えた下さり、ありがとうございました。
M YASUDA
2012/05/30 13:09

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